正直に告白すると、僕は「子ども食堂」という言葉に対して、勝手な先入観を抱いていた。
テレビのニュースやネットの記事で見かけるその場所は、どうしても「貧困」や「格差」という言葉とセットで語られることが多い。僕の頭の中には、「経済的に苦しい家庭の子」や「親が忙しくて一人ぼっちでご飯を食べる、かわいそうな子供」が行く場所だというイメージが、ガチガチに固まっていた。
だから、知人に誘われて「今度、近くの子ども食堂に行ってみない?」と言われたとき、僕の胸の内はかなり複雑だった。
「いや、うちは普通の家庭だし、毎日家族で食卓を囲んでいる。僕らが行くのは、なんだか本当に必要としている人の分を奪ってしまう気がするし、そもそも場違いじゃないか?」
本音を言えば、行くのはかなり億劫だった。
「ワクワク」する妻と子、腰の重い僕
ところが、僕のそんな葛藤をよそに、妻と息子は妙にノリノリだった。
妻は新しい場所やコミュニティに飛び込むのが大好きな性格で、「へぇー、面白そう!夕飯作らなくていいし最高じゃん!」と、ピクニックにでも行くようなテンション。 5歳の息子も、趣旨なんてこれっぽっちも理解していない。「他のお友達と遊べるの?おもちゃあるかな?」と、新しい遊び場に行けると勘違いしてワクワクしている。
二人の熱量に押される形で、僕は結局、重い腰を上げて家族で子ども食堂に向かうことになった。心の中では、「もしジロジロ見られたらどうしよう」「支援が必要な雰囲気だったら、どう振る舞えばいいんだろう」と、勝手な心配ばかりが膨らんでいた。
到着して受けた、最初の衝撃
会場の公民館に着くと、入り口には手書きの看板。中からは賑やかな声が漏れてくる。 意を決して扉を開けた瞬間、僕は立ち尽くした。
「……あれ? 思ってたのと全然違う」
そこに広がっていたのは、僕が勝手に想像していた「暗くて、切実で、どこか寂しげな場所」ではなかった。むしろ、地域の夏祭りの準備集会か、ちょっとしたパーティーのような、明るくて騒がしい熱気に満ちていたのだ。
受付を済ませて中に入ると、さらに驚きは続いた。
「普通」なんて言葉、どこにもなかった
一番の衝撃は、そこにいる「人たち」の多様さだった。
僕の隣のテーブルに座っていたのは、お父さんとお母さん、そして小学校高学年くらいの男の子の3人家族。男の子はテーブルに分厚い参考書を広げていた。 ふと見ると、それは超難関校として知られる私立中学の入試問題集だった。
「あ、受験生なの? 頑張るね」 妻が気さくに話しかけると、お母さんが笑って答えた。 「そうなんです。家でずっと勉強してると煮詰まっちゃうから、今日は『美味しいご飯を食べに行こう』って誘って。ここ、地域の人と喋れるから息抜きになるみたいで」
絶句した。中学受験をするような子が、家族と一緒に、ごく普通に、楽しそうにカレーを食べている。
他にも、
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「親は共働きで家にいるけど、友達に誘われたから遊びに来た」という中学生グループ
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「一人暮らしで寂しいから、子供の顔を見に来たのよ」と笑う近所のおじいちゃん
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仕事帰りにそのまま合流したスーツ姿のお父さんと、はしゃぐ娘さん
そこには、僕が勝手にカテゴライズしていた「貧困層」や「かわいそうな子供」なんて一人もいなかった。少なくとも、外見や雰囲気からそんな風に見える人は皆無だった。
恥ずかしさと、視界の広がり
みんな、ただそこに「場所」があるから集まっていた。 美味しいご飯を誰かと食べるために。 少しだけ家事の手を抜いて、子供と笑う時間を作るために。 家でも学校でもない、「サードプレイス」としてリラックスするために。
食事を終えて、息子が他所の子供たちと追いかけっこを始めたのを見ながら、僕は猛烈に恥ずかしくなった。
僕は「助ける側」と「助けられる側」という勝手な線を引いて、自分たちの場所ではないと決めつけていた。でも、実際に行ってみてわかったのは、子ども食堂の本質は「欠乏を埋める場所」である以上に、「孤立を防ぎ、つながりを作る場所」なのだということだ。
たとえ経済的に豊かでも、心が疲れている時はある。 家族揃ってご飯を食べていても、社会との接点を求めている時もある。
「貧困層が行くところ」という偏見を持っていた僕は、今の社会が抱える本当のニーズを何も分かっていなかったのだと思う。
帰り道の心地よい疲れ
帰り道、お腹いっぱいになった息子は僕の肩で寝息を立てていた。 妻は「あのレシピ、今度家でも真似してみようかな」と機嫌よく話している。
僕はといえば、行く前のあの億劫さが嘘のように、心がスッと軽くなっていた。 自分の偏見がボコボコに壊されるというのは、決して悪い気分じゃない。むしろ、狭かった視界がパッと開けたような、清々しささえあった。
もし、かつての僕のように「自分には関係ない場所だ」と思っている人がいたら、一度だけ、その扉を叩いてみてほしい。 そこにあるのは「特別」なことではなく、誰もが求めている「当たり前」の温かさなのだから。
また来月も、今度はもっとフラットな気持ちで、家族で遊びに行こうと思う。